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妙蓮『蓬折箴』40

2017.05.12 15:25|妙蓮『蓬折箴』

又復三藏分宗、定學、專明三昧、律詮戒學、唯論持犯、論詮慧學、開二智明、不無交、皆隨説戒學到家、究竟三聚、定學到家、究竟唯識(且約今宗)、皆能至果、同成佛慧、戒無慧解、但是利便、觀無慧解、乃屬事禪、戒是能防、業是所防、觀是能修、定屬所修、智度故、若戒、若、若觀、若禪、無有一法、不至果位、(『蓬折箴』『続蔵』60、81頁上/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁下))


注1:詮=『蓬折直弁』は「證」に作る。

注2:二智明=尽智と無生智のことか?

注3:至=『蓬折直弁』は「在」に作る。

注4:交至=一斉に来ること。ここでは二智を一度に証すことを指すか?意味をとりづらいので、あるいは誤字脱字があるか。

注5:名=『蓬折直弁』は「明」に作る。

注6:随説=わからない・・・

注7:便=『蓬折箴』は「使」に作るが、『蓬折直弁』にしたがって改めた。

注8:猶=『蓬折直弁』は「由」に作る。

注9:智度=智慧のこと。

注10:若戒=『蓬折直弁』には無し。

注11:業=『蓬折直弁』には「成業」に作る。


又復た三藏は宗を分ける。經は定學を詮らかにし、專ら三昧を明らかにす。律は戒學を詮らかにし、唯だ持犯のみを論ず。論は慧學を詮らかにし、二智明を開く。交至無からず。皆な隨説と名づく。戒學は家に到れば、究竟三聚、定學は家に到れば、究竟唯識(且らくは今宗に約す)、皆な能く果に至り、同じく佛慧を成ず。戒には慧解無し、但だ是れ利便なり。觀に慧解無し、乃ち事禪に属す。戒は是れ能防、業は是れ所防、觀は是れ能修、定は所修に属す。智度の猶きが故なり。若し戒、若し業、若し觀、若し禪、果位に至らざる一法有ること無し。


また三蔵は宗を分けたものである。経は定学を明らかにするものであり、専ら三昧を明らかにする。律は戒学を明らかにするものであり、ただ持犯のみを論じる。論は慧学を明らかにするものであり、尽智と無生智の二智を一度に証することができる。これらはすべて随説である。戒学の根本は、畢竟三聚浄戒であり、定学の根本は、畢竟唯識である(これは南山宗の立場について述べたものである)。三蔵・三学のいずれにおいても仏果に至って、さとりの智慧を獲得することができるが、戒には慧解はなく、利便のみがある。また観にも慧解はなく、事禅のみがある。戒は防ごうとする力であり、その対象は業である。観は修そうとする力であり、その対象は定である。智慧のようなものである(?)。戒であれ業であれ、観であれ禅(定)であれ、仏果位に至らないようなものは無いのである。



※経=定

 律=戒

 論=慧  どれによっても成仏することが可能

ということが一番言いたいことか?



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妙蓮『蓬折箴』39

2017.05.11 14:11|妙蓮『蓬折箴』
天台大師、約四三昧、判攝一代、經教所詮、明從行觀、三大部中、觀屬行、其餘二部、皆是開解、雖用觀、托事附法也、及觀中、前之六章、猶屬妙解、於正明境、的指事中一念、為所觀境、專以三千、而作指南、依經建立方便、正修立定日限、破妄顯真、慮境觀、鑽研所發疑悞、須明十境以別、邪正修觀、大約鄭重如此、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下~81頁上/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁下))

天台大師、四三昧に約して、一代を判摂し、經教の所詮は、行觀に従うことを明らかにす。三大部中、止觀は行に属し、其の餘の二部は、皆な是れ開解なり。只だ觀を用いると雖も、托事・附法なり。『止觀』中の前の六章に及べば、猶お妙解に属す。正しく境を明かすに於いて、指事を的らかにする中、一念を所觀の境と為し、專ら三千を以てして指南と作して、經に依りて方便を建立す。正修は立てて日限を定め、妄を破し真を顯ず。猶し慮境觀は、鑽研所發するも疑悞なり。須らく十境の別なるを明かす。邪正修觀、大いに鄭重に約すこと此くの如し。


注1:師=『蓬折箴』にはないが、『蓬折直弁』にしたがって補った。
注2:四三昧=四種三昧のこと。常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧。
注3:止観=『蓬折箴』には「心観」に作るが、『蓬折直弁』にしたがって改めた。
注4:只=『蓬折直弁』には「亦」に作る。
注5:附法=『蓬折直弁』には「所法」に作る。
托事・附法は、『三蔵法数』に次のように説明される。

【三種觀法】(出止觀義例)
[0197b05] 三種觀法者。謂修行用觀之法也。前托事附法二種。乃是天台智者大師。講法華經時。為座下聽眾有修觀行者。隨歷一事。皆以觀法表對。令其修習。名托事觀。或遇一切法相處。亦附彼法相。立其觀法。令其修習。名附法觀。後之一種。專約行門。復說摩訶止觀。兼明諸經所有行法。名約行觀。故有三種之不同也。一托事觀法。謂托王舍耆闍崛山等事而為觀也。名從事立。借事為觀。以導執情。故名托事觀。(王舍等事。表對觀法者。王表心王。舍表五陰。舍即是令觀五陰也。梵語耆闍崛。華言靈鷲。若表對者。靈表心王。鷲表受想行。山表色陰。亦是令觀五陰也。)二附法觀法。謂附四諦等法。入一念心以為觀法。故名附法觀。(四諦者。苦諦。集諦。滅諦。道諦也。)三約行觀法。謂專約行門而修觀也。故止觀義例云。唯於萬境觀一心。萬境雖殊。妙觀理一。故名約行觀。
三種観法とは、謂わく、修行に用いる観の法なり。前の托事・附法の二種は、乃ち是れ天台智者大師、法華経を講ず時、座下の聴衆に観行を修す者有るが為に、一事を随歴し、皆な観法表対を以て、其の修習せしむるを、托事觀と名づく。或いは一切の法相に遇う処、亦た彼の法相に附いて、其の観法を立て、其の修習せしむるを、附法観と名づく。後の一種は、専ら行門に約す。復た『摩訶止観』に説き、兼ねて諸経所有の行法を明かすを、約行観と名づく。故に三種の不同有るなり。
一に托事觀法とは、謂わく、王舍耆闍崛山等の事に托して観を為すなり。名は事立に従う。事を借りて観を為す。執情を導くを以て、故に托事観と名づく。(王舎等の事は、表対観法なれば、王は心王を表す。舎は五陰を表す。舎は即ち是れ五陰を観ずるなり。梵語の耆闍崛は、華には靈鷲と言う。若し表対せば、霊は心王を表し、鷲は受想行を表し、山は色陰を表す。亦た是れ五陰を観ぜしむなり)
二に附法観法とは、謂わく、四諦等の法なり。一念心に入るを以て観法と為す。故に附法観と名づく。(四諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦なり)
三に約行観法とは、謂わく、専ら行門に約して観を修すなり。故に『止観義例』に云う、「唯だ万境に於いて一心を観ずるなり。万境は殊なりと雖も、妙観の理は一なり。故に約行観と名づく。

注6:猶慮境観鑽=『蓬折箴』には「猶」の字がないが、『蓬折直弁』にしたがって補った。また『蓬折箴』は「慮境観鑽境観鑽」と作るが、後の「境観鑽」は誤字と見て訂正した。ただしこの一文はとても読みづらく、他にも誤字脱字が考えられる。
注7:十境=『摩訶止観』に挙げられる十乗観法の対象。1.陰境、2.煩悩境、3.病患境、4.業相境、5.魔事境、6.禅定境、7.諸見境、8.慢境、9.二乗境、10.菩薩境。


天台大師智顗は、四種三昧を、釈尊一代の教えの総決算と見て、仏教が明らかにするのは、行観であるとした。天台三大部の中、『摩訶止観』は行について書かれたものであり、その他の二部(『法華玄義』『法華文句』)は、どちらも法華開解について書かれたものである。ただ観法を行うとはいっても、これは托事観・附法観のことである。(しかし)『摩訶止観』の前の六章は、すぐれたさとり(妙解)について説かれている。まさしく(観法の)対象を明らかにする箇所では、指事を明示する中、「一念」を観法の対象とし、「三千」をその向かうところとしており、経にしたがって方便を建立している。正しい観法の修し方としては、日数を決めて、妄を破り、真実をあきらかにするものである。なお思慮を対象とする観法(?)は、研鑽して発したとしても誤りである恐れがある。(だから『摩訶止観』では)必ず十境の区別を明らかにしているのである。邪・正の観法を修す場合には、このように非常に丁寧に行わなければならない。


※早い話が、前の観経の話とセットで、観法の対象は一つに限る、ということを言いたいのかな?
おそらく誤字脱字があるものと考えられ、とても読みづらい。

妙蓮『蓬折箴』38

2016.12.13 22:26|妙蓮『蓬折箴』
通將三法、從寬至狹、約心約佛、的揀所觀、尅日成功、豈宜通便是十六觀門、雖本一經、亦非交在觀觀之後、皆結正、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁下)

通じて三法を将(ひき)い、寛従り狭に至りて、心に約し仏に約し、的しく所観を揀(えら)びて、日を尅(きざ)みて功を成す。豈に宜しく漫に通ずべきか。便ち是れ十六観門なり。本は一経と雖も、亦た交わりて在るには非ず。観観の後には、皆な邪正を結す。

注1:三法=今の時点では(元照『観経疏』を読んでないので・・・)、具体的に何を指すかは不明。文意からすると、三つの方法、というところだろうか。
注1:尅日=『蓬折箴』には「所觀赴四」と作る。文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。
注2:漫=『蓬折』には「慢」の字に作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。「漫」は、やたらに、とりとめなく、の意で、「慢」は仏教用語で、自らおごり高ぶることを意味する。
注3:便是=『蓬折箴』には「使見」と作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。
注4:交在=『蓬折箴』には「文至」と作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。
注5:邪=『蓬折箴』には「部」と作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。

三つの方法を使って、大から小へと観察対象を狭めていき、心を対象とし、心の中の仏を対象として、というように、観察対象を選定しながら、日数を経て、観法を完成させるのである。どうしてみだりに他の思念に通じるようなことがあろうか。このように十六観門は、『観無量寿経』一経のみに説かれているとはいえ、やはり観察対象がいくつかに交わることはない。一つ一つを観察した後に、修した者すべての邪・正が結実する。

Three methods are used to narrow down the observation from large to small. You select objects to observe, such as targeting the mind first, then Buddha in the mind, and so on, you will finish the observation through days. There is no such thing as entering other thoughts. This observation (16 views十六観門) is explained only by "Guānwúliàngshòujīng観無量寿経", but it can also lead to undisciplined observation on sutra. After the observation, you can understand each of good and evil of each of those who studied.





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