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妙蓮『蓬折箴』19

2016.10.28 15:31|妙蓮『蓬折箴』
是約圓宗、而成受體、善惡事法、作奉持、識對五塵、不容蹤、要令地、發趣知歸、(『蓬折箴』、『続蔵』60、80頁中/『蓬折直弁』、『続蔵』60、69頁上)

是れ圓宗に約して、受體を成じ、善惡の事法、止作奉持すれば、識は五塵に対して、徴蹤を容れず。要(かなら)ず地に愽めしめ、發趣せしめて、歸すことを知らすなり。

注1:是=ここでは「戒」を指すのであろう。
注2:円宗=エンシュウ。南山宗では、宗祖道宣が立てたとされる「実法宗」「仮名宗」「円教宗」の三宗の教判(『四分律羯磨疏』)を採用する。「円宗」はこのうちの「円教宗」を指すものであろう。
注3:受体=ジュタイ。「体」はものごとの本質を指す。ここでは戒の本体・本質を意味する「戒体」を意図しており、「受体」は受戒によって戒体を得ること。
注4:止=『蓬折箴』には「正」の字に作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。
注5:止作=シサ。止持・作持の意。止持は悪を制止すること、作持は善を作すこと。
注6:識=シキ。認識作用、識別作用、識別のはたらきをなす心、ほどの意。
注6:五塵=ゴジン。煩悩をおこさせ、人の心をちりのように汚すもの。具体的には色・声・香・味・触の五境のこと。
注7:徴=『蓬折箴』には「微」の字に作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって改めた。
注8:徴蹤=チョウショウ?。「徴」の字はしるしの意、「蹤」はあしあとの意であることから、「識対五塵、不容徴蹤」で、識が五塵の余韻さえも受け入れない、というほどの意味に解釈した。
注9:愽=『蓬折直弁』には「博」の字に作る。ひろい、ひろくいきわたる、の意。誤字の可能性あり。
注10:發趣=ホッシュ。目的を達成しようという心をおこすこと。
注11:帰=ここでは真如と同一化するというほどの意か。

円教宗の立場で戒体を得て、善を作し悪を止めることによって、みずからの心の中には五塵の余韻すらも存在しなくなる。(だから道宣は?)世界に戒を弘め、皆に持戒を目指させて、真如に帰一することを知らせようとしたのである。

Seeing from the yuánzōng円宗, If we perform a good thing and do not do bad thing with the vinaya, worldly desires disappear in a heart. Therefore dàoxuān道宣 spread vinaya in the world and let everybody aim at the observance of the vinaya, and he was going to inform that we were united into one in tathata.



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慈恩大師基の無表色解釈

2016.10.27 22:48|論文紹介
龍谷大学大学院文学研究科紀要 26, 56-68, 2004-12-10

法相宗祖とされる慈恩大師基の無表色の理解を『義林章』「表無表色章」の記述から解説し、彼が無表色を一般的な業論の上からではなく、戒の本体としてのみ扱っていたことを論じた。

icon_1r_64.pngCiNii PDF オープンアクセス

妙蓮『蓬折箴』読解にあたって

今さらにはなるが、どうして妙蓮『蓬折箴』の読解を行う必要があるのか、書いておきたいと思う。

妙蓮(1182~1262)の著作である『蓬折直弁』と『蓬折箴』は、いずれも『新纂続蔵』60に収載されている文献で、底本として使用された京都大学附属図書館所蔵の蔵経書院文庫本以外には、写本なども見つかっていない。

蔵経書院文庫本は、青写真の状態であり、写本そのものを伝えているわけでもないし、しかもその来歴は不明である。

また妙蓮の他の著作物も、現時点では見当たらない。

こんなにもマイナーな書物なので、誰もまともに読んだ人はいないだろう。にも関わらず、どうして私が苦労して読解を進めようとしているかというと、これら妙蓮の書物が、南宋代南山宗内における宗義論争の経緯と内容を記したものだからである。

『蓬折箴』読解を進めていれば明らかになることであるが、妙蓮は同じ南山宗に所属する鉄翁守一の著作に対して、大いに不快感を表明しており、彼の主張を批判している。

当時、日宋間には商船がひっきりなしに往来しており、そこに便乗して日本僧は中国に渡り、宋国の最新の仏教をリアルタイムに学ぶことができた。
妙蓮の元へも、対論者の守一の元へも、日本僧は参学していたことがあきらかで、両者の論争はリアルタイムに日本に紹介されたものと考えられる。

両者の論争は、単に宋国内の一宗旨のもめ事におさまらず、日本仏教にも影響したものと考えられるが、その内容については、ほとんど研究されていない。
日本仏教への影響を考える上でも、妙蓮『蓬折直弁』『蓬折箴』の内容読解は不可欠である。

しかし、本書を読むにあたって、大きな障害となるのが、現行の『新纂続蔵』収載のテキストにおける誤字・脱字の多さである。
これは底本として使用された京都大学附属図書館所蔵の蔵経書院文庫本に起因するもので、蔵経書院文庫本が底本とした写本が、よっぽどに酷い字であったものか、あるいは蔵経書院文庫本の書写者が、よっぽど仏教の教学に暗い人だったと推測される。

しかし本来のテキストを推測できる方法が皆無なわけではない。

妙蓮は宝祐二年(1254)正月に『蓬折直弁』を書き上げているが、その後、宝祐三年(1255)10月に再治して『蓬折箴』と名を改めている。
両書のテキストを突き合わせてみると、チャプターの入れ替えが見られるものの、内容はほとんど変わっていないことがわかる。
すなわち両書は同資料の異写本といってもよい関係にあるから、それぞれを見比べて、文意をとっていくことで、誤字脱字を訂正することも可能である。

両書のテキストの異同の一部を示せば、以下のようである。

問、所引多論、乃属有宗、起慈納戒、即分通義、答、云、諸部時、有此意、但不如四分五義然、今、此是仏 意、非意也、吾仏世尊、不覚漏洩、(『蓬折直弁』、『続蔵』六〇、七三頁上)

問、所引多論、乃属有宗、起慈納戒、即分通義、答、云、諸部時、有此意、但不如四分五義然、今、此見仏祖意、非意也、吾仏世尊、不覚陋池、(『蓬折箴』、『続蔵』六〇、八四頁下)

赤字下線部が両書で異なる文字であるが、これらはいずれも再治にあたって変更されたとは考えられず、誤写に基づくものであることが明らかである。 
「興」と「与」、「教」と「発」などは、くずし方が似ており誤写を招きやすい字であるが、これらの文字の異なりは内容を理解する上で致命的なミスを誘う原因となり得る。 
『新纂続蔵』所収の『蓬折直弁』と『蓬折箴』のテキスト間には、こうした誤写に基づくと考えられる文字の違いが、1行17文字のうちに平均して2~3文字も存在している。

このブログでは、こうした両者間の文字の異同を考慮し、全体の文意の解釈を施すことで、再治後の『蓬折箴』の本来のテキストを復元しよう、という壮大(?)な目的なもとに、『蓬折箴』の読解を行っている。

『蓬折箴』のテキスト確定は、前に述べたように、日宋間の仏教のあり方を考える上で、充分に意義があるものではあるが、大部になるので、雑誌論文として投稿する先もない。
発表の場さえもないような仕事を続けるモチベーションを保てる自信はない。
他の誰かがやれと言ったところで、仏教学でこの分野に興味を持っているのは、たぶん私だけなので、私がやらなければ、永遠に誰もやらないだろう。こんな面倒くさい事。
で、ブログである。

こんなマニアックな内容のブログを見る人はとても少ないだろうけれども、誰かが見てくれている、と思うと、なんとか義務感を保てるだろうし、内容の質も保てるだろう。

これまで続けてきて、それでも意味をとれないところは、多く存在する。
どこまで続けられるかわからないけれど、できる限り、完結したいとは、思っている。
できる限り・・・





妙蓮『蓬折箴』18

2016.10.25 22:21|妙蓮『蓬折箴』
亦何戒、祖教專弘、所被之人、本為新學、観慧的不境緣、

亦た何んぞ戒を忘れて、祖教專ら弘むや。所被の人は、本は新學と為す。観慧を明かすを除き、的(まさ)に境緣とせず。

注1:忘=『蓬折直弁』では「怠」の字に作る。
注2:除=『蓬折直弁』では「深」の字に作る。ここでは文意から『蓬折箴』の文章をそのままに採用したが、「除」と「深」では意味が180°違ってしまうので、迷うところである。
注3:観慧=『蓬折直弁』には「慧解」と作る。慧解は智慧によってものごとを正しく理解すること。観慧は、禅定にもとづく智慧の意である。いずれも意味としては通りそうであるが、ここでは守一の意見(観法こそが南山宗の旨であるという主張)を批判する文章であるとみて、「観慧」をそのまま採用した。
注4:的不=『蓬折箴』には「酌示」と作るが、これでは意味がわからない。文意から『蓬折直弁』の本文にしたがって、「的不」と改めた。しかし「不」と「示」では、意味が180°違ってしまう。「的不境縁」で、境縁(対象)とはしなかった、というほどの意味に採った。

またどうして戒を忘れて、南山宗の教学だけが弘まるということがあろうか。南山宗は、本来、新しく仏法を学びはじめた人を教化の対象としている。禅定にもとづく智慧を明らかにすることはせず、目的対象とはしなかった。

And then the teaching of Nanshan sect cannot spread without the vinaya. Nanshan sect originally aims at the person who has begun to learn Buddhism newly for the enlightenment. The wisdom to obtain by meditation is not a purpose.


妙蓮『蓬折箴』17

2016.10.24 22:00|妙蓮『蓬折箴』
不知何處持戒而論心境、即事而真位、方能至此地位、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁中/『蓬折直弁』『続蔵60、69頁上)

知らず、何れの処に於いてか持戒して心境を論ずるやを。事に即して真の深位なれば、方に能く此の地位に至る。

注1:不知=『蓬折直弁』には、「不知」字の前に「若其然者」が挿入される。またこの主語は妙蓮と解釈したが、どうか。
注2:於=『蓬折直弁』には、「於」字の前に「令」が挿入される。
注3:持戒而論心境=解釈しづらいが、全体的な文意をみると、持戒のことを心の対象として(観法することを)論じること、という風な意味と採るべきか。誤字脱字のある可能性がある。
注4:深=『蓬折箴』には「除」の字に作るが、文意から『蓬折直弁』にしたがって、改めた。

(南山宗祖の書物の)どこに持戒を観法と解釈することが書いてあるというのか、私は見たことがない。(南山宗は?)事相に即して、まことの深い位とするのだから、まさに(持戒という事相によって?)この地位に至ることができるだろう。

Where is interpretation to regard observance of the vinaya as meditation written on? I do not read about that. The true deep rank accords with practical training. 

※全体的に文意を採りづらい・・・。


妙蓮『蓬折箴』16

2016.10.21 22:44|妙蓮『蓬折箴』
中所論、衣食四儀諸戒對治、用心之處用時須之、務曲盡規猷、正明戒行、彼謂妙觀、乃是迷名、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁中/『蓬折直弁』『続蔵60、69頁上)

文中に論ずる所、衣食四儀・諸戒對治・用心之處は、日用時にこれを須(もち)い、務めて曲(つぶ)さに規猷を尽くすと。正しく戒行を明かす。彼妙觀と謂うは、乃ち是れ迷名なり。

注1:文=『蓬折直弁』には「文」の直前に「且」の字を挿入する。この「文」は以下の検討(注2・3・4)により「衣食四儀、諸戒對治・用心之處」を指すものと考えられる。すなわち守一『終南家業』の本文内容を表すものであろう。
注2:衣食四儀=元照『四分律行事鈔資持記』釋懺六聚法篇(『大正』40、350頁下)にあり。また守一『終南家業』にも使用される語句である(『続蔵』59、721頁上、725頁上、753頁中)。衣食に関する4つの威儀作法を指すのであろうが、内容については、もっと深くそれぞれの書物を読み込まなければわからない。今のところはペンディング。
注3:諸戒對治=道宣『四分律含注戒本疏』(元照『四分律含注戒本疏行宗記』に引用される。『続蔵』39、807頁中)にあり。また守一『終南家業』には「諸戒對治〈此れ慈悲少欲等を指す。法を犯さざる為なり〉」(『続蔵』59、752頁下)と説明される。「對治」は煩悩の魔を降伏させることを指すから、持戒によって煩悩を滅する、ほどの意味であろう。
注4:用心之處=『終南家業』には使用されている(『続蔵』59、721頁下)ものの、道宣・元照などの宗祖の典籍類には見ることができない。ただし意味については具体的なところはわからない。今のところはペンディング。
注5:日=『蓬折箴』には「日」の直前に「在」の字を挿入するが、以下の『資持記』の説を参考とし、『蓬折直弁』にしたがって改めた。(注6)
注6:之無=『蓬折箴』には「故」の字に作り、『蓬折直弁』にはこれらの字無し。以下の『資持記』の説を参考として改めた。(注6)
注7:在日用時須故曲盡規猷=元照『四分律行事鈔資持記』序部分に以下のようにあるのに従ったものと考えられる。
攝僧護法之儀橫提(堤カ)綱要。日用時須之務曲盡規猷。是故歷代重之以為大訓。(『大正』40、157頁上)
僧の護法を摂するの義は、横堤となる綱要なり。日用時にこれを須(もち)い、務めて曲(つぶ)さに規猷を尽くす。是の故に歴代にこれを重んじ、以て大訓と為す。
注7:規猷=「規」は正しくする、ただす、いましめる、ほどの意味。「猷」ははかる、はかりごと、考えを引き出す、考えを引き出すこと、ほどの意味。すなわち「規猷」は正しく考える、正しい考え、ほどの意味か。律系文献に時々使用されている。

守一『終南家業』には、「衣食四儀」「諸戒対治」「用心之処」が説かれる。これらは元照によって「毎日時に、具体的に正しい考えにのっとって行う」ことであるとされている。これはまさしく戒行を明らかにしているのであって、彼(守一)が「妙観」というのは、誤った見解である。

zhōngnánjiāyè終南家業 says " Four rules about food and clothing”, "Extinguish worldly desires by observance of the vinaya" and "Careful place". yuánzhào元照 said "taking the concrete action in conformity with a right thought every day every time" about these matters. yuánzhào's opinions clarify the following vinaya. So It is wrong that he (tiĕwēngshŏuyī鉄翁守一)  insists with "miàoguān妙観".




凝然の浄土教理解 ―『大乗起信論』三心の解釈を中心に―

2016.10.20 22:05|論文紹介
龍谷大学大学院文学研究科紀要 28, 82-94, 2006
 
東大寺戒壇院中興の凝然が『起信論』『維摩経』『観経』にそれぞれ出る「三心」を全て相応させ、三聚浄戒や三徳などとも相応の関係にあると理解していることを明らかにした。また彼は律宗の中にこそ浄土教の正統があると考えていた可能性を説いた。 
icon_1r_64.pngCINII PDF オープンアクセス

妙蓮『蓬折箴』15

2016.10.19 22:00|妙蓮『蓬折箴』
謂能深究、超拔古賢、豈知、翻為不識心境、弄巧成拙(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁中/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁上)

謂く、能く深究し、古賢を超拔すと。豈に知んぬ、翻ずれば心境を識らざるが為に、弄巧成拙することを。

注1:謂=以下は守一の自画自賛の言葉と理解した。しかしこの通りの文言は守一の著作内にみつけることはできない。
注2:深究=『蓬折箴』では「除究」の字に作るが、文意により『蓬折直弁』にしたがって改めた。深く追求する、深く研究するの意。
注3:古賢=『蓬折箴』では「苦賢」の字に作るが、文意により『蓬折直弁』にしたがって改めた。昔の賢人のこと。
注4:不識心境=「心境」は認識の対象を指す。「不識心境」は、ここでは以上の自画自賛に関して、認識対象である自分のことを正確に理解できていない、という意か。
注5:弄巧成拙=ロウコウセイセツ。『蓬折直弁』の本文中には無し。賢さをひけらかそうとして、愚かさを露呈すること。うまくやろうとして、かえって失敗してひどいことになること。

彼(守一)自身は、研究を深めて、昔の賢人たちを超越したと自画自賛している。翻って、認識対象である自分自身を正確に理解せず、賢さをひけらかそうとして、愚かさを露呈していることを、彼は知らないのである。

He is good at blowing his own horn, "I deepened a study and transcended old wise men !" But he do not know that he do not understand himself and he shows stupidity though he intend to show off wisdom.


妙蓮『蓬折箴』14

2016.10.18 21:53|妙蓮『蓬折箴』
在何庸借本、彼為心、欲吾宗非事相之學、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁中/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁上)


在何(どこ)かで庸して本を借り、彼の心と為すを料するに、吾が宗を題せんと欲すは、事相の學には非ず。

注1:在何=どこで、の意か。あるいは「在」は前の文章の末尾につくべきか。
注2:庸=並であること、凡庸であること、すぐれたところがないこと。あるいは、人をやとい用いること。ここでは意味を採りづらい。蔵経書院文庫所収の『蓬折直弁』の原文には、別の字が書かれていたところを塗りつぶし、「庸」の字が宛てられた形跡を見ることができる。あるいは別字だったものを『蓬折箴』に照らし合わせて変更したものか。
注3:料=『蓬折箴』では「断」の字に作るが、文意により『蓬折直弁』にしたがって改めた。おしはかること、見当をつけてはかること、の意。
注4:題=『蓬折箴』では「顕」の字に作るが、文意により『蓬折直弁』にしたがって改めた。ここでは南山宗の宗名を『終南家業』というタイトルの中に入れ込んでいることを指すものと判断した。

どこであったか『終南家業』の本を借りて、彼(守一)の本心を推測してみるに、彼が吾が宗「南山」の名をタイトルに付けたがったのは、事相の面を主張するためではなかったであろう。

I borrowed a book and supposed his real intention. He adopted the name of our sect in the title of the book, but I supposed that this is not the result that paid attention to a practice side.

※大変訳しづらい箇所である・・・。恐らく誤字脱字等があるものと考えられる。



(訂正案)2016.10.20

在何庸借本、彼為心、欲吾宗非事相之學、

在何(どこ)かで庸して本を借り、彼の心と為すを料するに、吾が宗、事相の學には非ざるを顕かにせんと欲す。

注1:顕=『蓬折箴』の本文にしたがって、もとに戻した。

どこであったか『終南家業』の本を借りて、彼(守一)の本心を推測してみるに、我々南山宗の旨は事相の学ではないということを明確にしたかったのだろう。

I borrowed a book and supposed his real intention. He wanted to clear that the Nanshan sect was not practical training.



妙蓮『蓬折箴』13

2016.10.17 22:21|妙蓮『蓬折箴』
未審、吾祖為弘律耶、為弘觀耶、若謂弘律、律何無本、若謂弘觀、何云弘律、雙弘在人、據行無可不可、既言弘律、正是約教、教有(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁中、『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁上)

未だ審らかならず、吾が祖は弘律を為すや、弘觀を為すや。若し弘律と謂わば、律は何んぞ本にあらざるや。若し弘觀と謂わば、何んぞ弘律と云うや。雙弘と謂う人在り。行に據れば可不可は無し既に弘律と言うは、正しく是れ教に約す。教有るのみ。

注1:謂=『蓬折直弁』には「我謂」とあり。
注2:不可=『蓬折直弁』本文にはなし。
注3:雙弘在人據行無可不可=意味を取りづらい。「(もし)雙弘と謂わば、人在りて行に拠るに、可不可無し」とも読めるが・・・。あるいは『蓬折直弁』の記述によって「雙弘と謂う人在るも、行に拠るは可ならず」と読んで、実践面だけで判断するのはダメだ、という意にとるか。ここでは『蓬折直弁』の意も押さえながら、実践面では両立可能だが、それが真意ではない、というような意を採用した。
注4:耳=『蓬折直弁』本文には「司」と作る。

いまだ明らかになっていないことであるが、吾が祖道宣は律法を弘通したのであろうか、それとも観法を弘通したのであろうか。もし律法を弘通したというのであれば、どうして南山宗は律法を根本とする教義になっていないのか。もし観法を弘通したというのであれば、どうして道宣は「弘律:律法を弘通した」というのであろうか。律法も観法もどちらも弘通したという人がいる。実践面では両立可能であろう。しかし道宣が「弘律」というのは、まさしく教学のことを指すのである。教学こそが道宣の意図するところである。

It is not yet clear, Is it the vinaya or the meditation that our sect father Dàoxuān道宣 diffused? Why does Nanshan sect not have a doctrine mainly on the vinaya if Dàoxuān diffused the vinaya? Why does Dàoxuān say "hónglǜ弘律 : the diffuse vinaya" if he diffused the meditation? The certain person says, "Dàoxuān diffused both the vinaya and the meditation both". The coexistence of both is possible on the practice side. I think that hónglǜ refers to only vinaya doctrine. 




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