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妙蓮『蓬折箴』18

2016.10.25 22:21|妙蓮『蓬折箴』
亦何戒、祖教專弘、所被之人、本為新學、観慧的不境緣、

亦た何んぞ戒を忘れて、祖教專ら弘むや。所被の人は、本は新學と為す。観慧を明かすを除き、的(まさ)に境緣とせず。

注1:忘=『蓬折直弁』では「怠」の字に作る。
注2:除=『蓬折直弁』では「深」の字に作る。ここでは文意から『蓬折箴』の文章をそのままに採用したが、「除」と「深」では意味が180°違ってしまうので、迷うところである。
注3:観慧=『蓬折直弁』には「慧解」と作る。慧解は智慧によってものごとを正しく理解すること。観慧は、禅定にもとづく智慧の意である。いずれも意味としては通りそうであるが、ここでは守一の意見(観法こそが南山宗の旨であるという主張)を批判する文章であるとみて、「観慧」をそのまま採用した。
注4:的不=『蓬折箴』には「酌示」と作るが、これでは意味がわからない。文意から『蓬折直弁』の本文にしたがって、「的不」と改めた。しかし「不」と「示」では、意味が180°違ってしまう。「的不境縁」で、境縁(対象)とはしなかった、というほどの意味に採った。

またどうして戒を忘れて、南山宗の教学だけが弘まるということがあろうか。南山宗は、本来、新しく仏法を学びはじめた人を教化の対象としている。禅定にもとづく智慧を明らかにすることはせず、目的対象とはしなかった。

And then the teaching of Nanshan sect cannot spread without the vinaya. Nanshan sect originally aims at the person who has begun to learn Buddhism newly for the enlightenment. The wisdom to obtain by meditation is not a purpose.


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