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妙蓮『蓬折箴』36

2016.12.09 22:11|妙蓮『蓬折箴』
若約兩重能所、對諦觀、乃屬所破諦觀相、如器諸淳朴、方名妙觀、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁中~下)

若し両重の能所に約すれば、諦観に対す。乃ち破す所に属す諦観の相は、宜しく「器諸淳朴」の如くなるべし。方に妙観と名づく。

注1:両重=理観・事観の二つを指すか?あるいは、三観のうちの性相二観?それとも以下に述べる能所について述べたもの?
注2:能所=心と境を指すか?
注3:於=『蓬折箴』には「拾」の字に作るが、文意から『蓬折直弁』本文にしたがって「於」に改めた。
注4:宜=『蓬折直弁』には「冥」の字に作る。
注5:器諸淳朴=知禮『十不二門指要鈔』の次の文(『大正』46、706頁下)を意識した記述と考えられる。
豈に諦觀倶に能觀と為すに非ざるや。今更に自ら一譬を立て、雙わせて兩重の能所を明かす。器諸淳朴の如し。豈に單に槌を用いて砧無からんや。故に知んぬ、槌・砧は自ら能所を分かつ。若し淳朴を望めば皆な能に属すなり。智者は喩を以て解を得る幸、これに詳しかるべし。皆な弁えざる爲に、兩重所觀とするが故に斯の旨に迷う。
この箇所は天台の三諦三観について述べた箇所。正直よくわからないが、三諦と三観の関係性を槌砧(ついちん・禅堂で食事の時などを知らせる法具で、八角形の細く高い台(砧)を、八角形の槌で打つ)に例えており、どちらもが能(主体)・所(客体)になり得る、ということであろうか。

もし主体(心)と客体(境)について述べるのであれば、これは諦(真理)と観(真理を対象とした観法)について言っているのである。つまり諦と観の相というのは、「器諸淳朴」のように、主体と客体とが融通している状態である。これを妙観と名づけるのである。

If you are talking about subjects (heartland心) and objects (target境), this is about the truth and observations targeting the truths. In other words, the appearance of the truth and the observation targeting the truth is a state where the subject and the object are interchangeable, like "qìzhūchúnpiáo器諸淳朴". This is called miàoguān妙観.





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