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妙蓮『蓬折箴』読解にあたって

今さらにはなるが、どうして妙蓮『蓬折箴』の読解を行う必要があるのか、書いておきたいと思う。

妙蓮(1182~1262)の著作である『蓬折直弁』と『蓬折箴』は、いずれも『新纂続蔵』60に収載されている文献で、底本として使用された京都大学附属図書館所蔵の蔵経書院文庫本以外には、写本なども見つかっていない。

蔵経書院文庫本は、青写真の状態であり、写本そのものを伝えているわけでもないし、しかもその来歴は不明である。

また妙蓮の他の著作物も、現時点では見当たらない。

こんなにもマイナーな書物なので、誰もまともに読んだ人はいないだろう。にも関わらず、どうして私が苦労して読解を進めようとしているかというと、これら妙蓮の書物が、南宋代南山宗内における宗義論争の経緯と内容を記したものだからである。

『蓬折箴』読解を進めていれば明らかになることであるが、妙蓮は同じ南山宗に所属する鉄翁守一の著作に対して、大いに不快感を表明しており、彼の主張を批判している。

当時、日宋間には商船がひっきりなしに往来しており、そこに便乗して日本僧は中国に渡り、宋国の最新の仏教をリアルタイムに学ぶことができた。
妙蓮の元へも、対論者の守一の元へも、日本僧は参学していたことがあきらかで、両者の論争はリアルタイムに日本に紹介されたものと考えられる。

両者の論争は、単に宋国内の一宗旨のもめ事におさまらず、日本仏教にも影響したものと考えられるが、その内容については、ほとんど研究されていない。
日本仏教への影響を考える上でも、妙蓮『蓬折直弁』『蓬折箴』の内容読解は不可欠である。

しかし、本書を読むにあたって、大きな障害となるのが、現行の『新纂続蔵』収載のテキストにおける誤字・脱字の多さである。
これは底本として使用された京都大学附属図書館所蔵の蔵経書院文庫本に起因するもので、蔵経書院文庫本が底本とした写本が、よっぽどに酷い字であったものか、あるいは蔵経書院文庫本の書写者が、よっぽど仏教の教学に暗い人だったと推測される。

しかし本来のテキストを推測できる方法が皆無なわけではない。

妙蓮は宝祐二年(1254)正月に『蓬折直弁』を書き上げているが、その後、宝祐三年(1255)10月に再治して『蓬折箴』と名を改めている。
両書のテキストを突き合わせてみると、チャプターの入れ替えが見られるものの、内容はほとんど変わっていないことがわかる。
すなわち両書は同資料の異写本といってもよい関係にあるから、それぞれを見比べて、文意をとっていくことで、誤字脱字を訂正することも可能である。

両書のテキストの異同の一部を示せば、以下のようである。

問、所引多論、乃属有宗、起慈納戒、即分通義、答、云、諸部時、有此意、但不如四分五義然、今、此是仏 意、非意也、吾仏世尊、不覚漏洩、(『蓬折直弁』、『続蔵』六〇、七三頁上)

問、所引多論、乃属有宗、起慈納戒、即分通義、答、云、諸部時、有此意、但不如四分五義然、今、此見仏祖意、非意也、吾仏世尊、不覚陋池、(『蓬折箴』、『続蔵』六〇、八四頁下)

赤字下線部が両書で異なる文字であるが、これらはいずれも再治にあたって変更されたとは考えられず、誤写に基づくものであることが明らかである。 
「興」と「与」、「教」と「発」などは、くずし方が似ており誤写を招きやすい字であるが、これらの文字の異なりは内容を理解する上で致命的なミスを誘う原因となり得る。 
『新纂続蔵』所収の『蓬折直弁』と『蓬折箴』のテキスト間には、こうした誤写に基づくと考えられる文字の違いが、1行17文字のうちに平均して2~3文字も存在している。

このブログでは、こうした両者間の文字の異同を考慮し、全体の文意の解釈を施すことで、再治後の『蓬折箴』の本来のテキストを復元しよう、という壮大(?)な目的なもとに、『蓬折箴』の読解を行っている。

『蓬折箴』のテキスト確定は、前に述べたように、日宋間の仏教のあり方を考える上で、充分に意義があるものではあるが、大部になるので、雑誌論文として投稿する先もない。
発表の場さえもないような仕事を続けるモチベーションを保てる自信はない。
他の誰かがやれと言ったところで、仏教学でこの分野に興味を持っているのは、たぶん私だけなので、私がやらなければ、永遠に誰もやらないだろう。こんな面倒くさい事。
で、ブログである。

こんなマニアックな内容のブログを見る人はとても少ないだろうけれども、誰かが見てくれている、と思うと、なんとか義務感を保てるだろうし、内容の質も保てるだろう。

これまで続けてきて、それでも意味をとれないところは、多く存在する。
どこまで続けられるかわからないけれど、できる限り、完結したいとは、思っている。
できる限り・・・





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