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妙蓮『蓬折箴』13

2016.10.17 22:21|妙蓮『蓬折箴』
未審、吾祖為弘律耶、為弘觀耶、若謂弘律、律何無本、若謂弘觀、何云弘律、雙弘在人、據行無可不可、既言弘律、正是約教、教有(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁中、『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁上)

未だ審らかならず、吾が祖は弘律を為すや、弘觀を為すや。若し弘律と謂わば、律は何んぞ本にあらざるや。若し弘觀と謂わば、何んぞ弘律と云うや。雙弘と謂う人在り。行に據れば可不可は無し既に弘律と言うは、正しく是れ教に約す。教有るのみ。

注1:謂=『蓬折直弁』には「我謂」とあり。
注2:不可=『蓬折直弁』本文にはなし。
注3:雙弘在人據行無可不可=意味を取りづらい。「(もし)雙弘と謂わば、人在りて行に拠るに、可不可無し」とも読めるが・・・。あるいは『蓬折直弁』の記述によって「雙弘と謂う人在るも、行に拠るは可ならず」と読んで、実践面だけで判断するのはダメだ、という意にとるか。ここでは『蓬折直弁』の意も押さえながら、実践面では両立可能だが、それが真意ではない、というような意を採用した。
注4:耳=『蓬折直弁』本文には「司」と作る。

いまだ明らかになっていないことであるが、吾が祖道宣は律法を弘通したのであろうか、それとも観法を弘通したのであろうか。もし律法を弘通したというのであれば、どうして南山宗は律法を根本とする教義になっていないのか。もし観法を弘通したというのであれば、どうして道宣は「弘律:律法を弘通した」というのであろうか。律法も観法もどちらも弘通したという人がいる。実践面では両立可能であろう。しかし道宣が「弘律」というのは、まさしく教学のことを指すのである。教学こそが道宣の意図するところである。

It is not yet clear, Is it the vinaya or the meditation that our sect father Dàoxuān道宣 diffused? Why does Nanshan sect not have a doctrine mainly on the vinaya if Dàoxuān diffused the vinaya? Why does Dàoxuān say "hónglǜ弘律 : the diffuse vinaya" if he diffused the meditation? The certain person says, "Dàoxuān diffused both the vinaya and the meditation both". The coexistence of both is possible on the practice side. I think that hónglǜ refers to only vinaya doctrine. 




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