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妙蓮『蓬折箴』33

2016.11.25 00:00|妙蓮『蓬折箴』
『羯磨經』引『薩婆多論』、為正教量、『論』云、「凡欲受戒、先說法、開導令於一切境、起慈心、便得增上戒」、『業疏』云「此之戒法、出家本務、素非懷大、定難容納、有由矣」(文)
(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁中)

故に『羯磨経』に『薩婆多論』を引きて、正教量と為す。『論』に云う、「凡そ受戒せんと欲すれば、先ず說法を与えて引導開解し、一切境の上に於いて、慈悲心を起こさしめ、便ち增上戒を得せしめん」と。『業疏』に云う、「此の戒法は、出家の本務なり。素より大を懐くに非ず。定めて容納し難し。深く由有り」と。文

注1:羯磨経=おそらく道宣『四分律刪補隨機羯磨』(以下『四分律羯磨』)を指す。
注2:薩婆多論=説一切有部の律に関する注釈書で、一般には失訳『薩婆多毘尼毘婆沙』を指すようであるが、該当の文章は見当たらない。中国南山宗と、その系譜を受けた日本仏教界においては、別訳か、あるいは全く別の『薩婆多論』が存在していた可能性が高い。
注3:正教量=『蓬折箴』には「正量教」と作るが、『蓬折直弁』の記述により、文意から「正教量」へと改めた。正教量は、信頼されるべき権威のことを意味する。
注4:凡欲受戒~増上戒=道宣集『四分律羯磨』の受戒法を説く中に「薩婆多論云」として引用されている箇所(『大正』40、497頁下)。具体的には以下。
二に正授戒體法、(『薩婆多論』に云う、「凡そ戒を受けんと欲すれば、先ず說法を与えて引導開解し、一切境の上に於いて、慈悲心を起こさしめ、便ち增上戒を得せしめん。應に彼に語りて言う、〈六道眾生は多く是れ戒障なり。唯だ人のみ得受するも、猶し遮難を含み、必ずしも並に堪えず。汝遮難無し、定んで受戒を得。汝當に文に依りて增上心を発すべし。所謂一切眾生を摂し救い、法を以て彼を度す。又た戒は是れ諸善の根本なり。能く三乘の正因と作す。又た戒は是れ佛法中の寶なり。餘道に無き所なり。又た能く佛法を護持し、正法久住せしむ。又た羯磨の威勢は眾僧の大力なり。能く法界勝法を挙げて、汝の身心中に置く。汝當に一心に諦らかに受すべし〉と、應に白して言さくなり」と。)
注5:与=『蓬折箴』には「為」の字に作り、『蓬折直弁』には「興」の字に作る。この箇所は上記(注4)のとおり、道宣集『四分律羯磨』からの引用分であるから、『四分律羯磨』本文により、「与」の字に改めた。
注6:上=『蓬折箴』には「上」の字が無いが、『四分律羯磨』本文、ならびに『蓬折直弁』本文により、「上」の字を補った。
注7:悲=『蓬折直弁』には「愍」の字に作る。
注8:増上戒=ぞうじょうかい。増上は力強いの意。優れた修道である戒をいう。
注8:此之戒法~除有由矣=道宣『業疏』の文章(『続蔵』巻41、241頁下)。具体的には以下。
多論の證を引くは、是れ正量なり。凡愚智淺、何んぞ能く知を生ぜん。自ら學久しからず、誨を卒しても猶お暗し。此の戒法は、出家の本務なり。素より大を懐くに非ず。定めて容納し難し。深く由有り。
注9:深=『蓬折箴』には「除」の字に作るが、この箇所は上記(注8)のとおり、道宣『業疏』からの引用であるから、『業疏』本文、ならびに『蓬折直弁』本文により、「深」の字に改めた。

だから『四分律羯磨』には、『薩婆多論』が信頼されるべき教えであるとして引用されるのである。『薩婆多論』には、「一般に受戒しようと思ったならば、まず仏法を説いて、彼らを仏法に引導し、理解させなければならない。認識されるすべてに対して慈悲心を起こさせて、戒を受得させるべきである」とある。またこの文を解釈して、道宣は『業疏』中に「この戒法は、出家の本分である。皆、最初から大乗の心をもつわけではないから、それを持つのは難しい。そういうわけで、受戒前に大乗の気持ちを起こさせるのである」と言っている。

So "Sìfēnlǜjiémó四分律羯磨" quotes "Sàpóduōlún薩婆多論" as a reliable authority. "Sàpóduōlún薩婆多論" says, "Generally, it is nesesary for new priest to be teached the Buddhism and to be led and to be understood. They have to have compassion for everything they recognize. Then they should receive the vinaya." In interpreting this sentence, Dàoxuān道宣 says in "Sìfēnlǜjiémóshū四分律羯磨疏" "This command is the most important item of the bhikşu比丘(出家者), but not everyone has a Mahayana heart from the beginning, it is difficult to have it. There is a reason."

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