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妙蓮『蓬折箴』37

2016.12.12 22:58|妙蓮『蓬折箴』
又復須知、修觀之法、的指一境、不容異念、如記主觀經新疏、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁下)

又復(また)須く知るべし。修観の法、的(まさ)しく一境を指し、異念を容れざることを。記主の『観経新疏』の如し。

注1:記主=元照のこと。北宋代の南山宗中興。
注2:観経新疏=元照『觀無量壽佛經義疏』のこと。

また、観法とは一つの対象に集中し、他の思念に及ばないということを、知るべきである。元照の『観無量寿仏経義疏』に説かれている通りである。

Also, you should know that the observation focuses on one object and does not reach other thoughts. It is as described in "Guānwúliàngshòufójīngyìshū観無量寿仏経義疏" of yuánzhào元照.



妙蓮『蓬折箴』36

2016.12.09 22:11|妙蓮『蓬折箴』
若約兩重能所、對諦觀、乃屬所破諦觀相、如器諸淳朴、方名妙觀、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下/『蓬折直弁』『続蔵』60、69頁中~下)

若し両重の能所に約すれば、諦観に対す。乃ち破す所に属す諦観の相は、宜しく「器諸淳朴」の如くなるべし。方に妙観と名づく。

注1:両重=理観・事観の二つを指すか?あるいは、三観のうちの性相二観?それとも以下に述べる能所について述べたもの?
注2:能所=心と境を指すか?
注3:於=『蓬折箴』には「拾」の字に作るが、文意から『蓬折直弁』本文にしたがって「於」に改めた。
注4:宜=『蓬折直弁』には「冥」の字に作る。
注5:器諸淳朴=知禮『十不二門指要鈔』の次の文(『大正』46、706頁下)を意識した記述と考えられる。
豈に諦觀倶に能觀と為すに非ざるや。今更に自ら一譬を立て、雙わせて兩重の能所を明かす。器諸淳朴の如し。豈に單に槌を用いて砧無からんや。故に知んぬ、槌・砧は自ら能所を分かつ。若し淳朴を望めば皆な能に属すなり。智者は喩を以て解を得る幸、これに詳しかるべし。皆な弁えざる爲に、兩重所觀とするが故に斯の旨に迷う。
この箇所は天台の三諦三観について述べた箇所。正直よくわからないが、三諦と三観の関係性を槌砧(ついちん・禅堂で食事の時などを知らせる法具で、八角形の細く高い台(砧)を、八角形の槌で打つ)に例えており、どちらもが能(主体)・所(客体)になり得る、ということであろうか。

もし主体(心)と客体(境)について述べるのであれば、これは諦(真理)と観(真理を対象とした観法)について言っているのである。つまり諦と観の相というのは、「器諸淳朴」のように、主体と客体とが融通している状態である。これを妙観と名づけるのである。

If you are talking about subjects (heartland心) and objects (target境), this is about the truth and observations targeting the truths. In other words, the appearance of the truth and the observation targeting the truth is a state where the subject and the object are interchangeable, like "qìzhūchúnpiáo器諸淳朴". This is called miàoguān妙観.





妙蓮『蓬折箴』35

2016.12.08 15:33|妙蓮『蓬折箴』
三種理觀、隨律之、經祖教觀、宜用之、有處戒觀兩門、須分心境、戒以防禁為心、罪惡為境、觀以契會為心、寂理為境、雖有觀事生滅之句、此是事境、如智論因緣所生法也、非謂諦境、(『蓬折箴』『続蔵』60、80頁下/『蓬折直弁』『続蔵60、69頁中)

三種の理観は、律に随う。経祖の教観は、宜しく之れを用いるべし。有処の戒観の両門、須く心境を分かつべし。戒は防禁を以て心と為し、罪悪を境と為す。観は契会を以て心と為し、寂理を境と為す。観事生滅の句有りと雖も、此は是れ事境なり。『智論』の因縁所生法の如きなり。諦境を謂うに非ず。

注1:三種理観=南山宗でいうところの三観(性空・相空・唯識)のことを指すか。南山宗では、すべての存在へのとらわれを空と観ずる性空觀、すべての存在の本体には姿がなく空であることを觀ずる相空觀、心のほかには何もないことを觀ずる唯識観の三種があると説かれる。
あるいは、前出(妙蓮『蓬折箴』29注3)の三解脱門(空・無相・無願)を指すか。
注2:経祖=教祖と観て、道宣を指すか?
注3:契会=かいえ。ぴったりとかなうこと。あるいは契心証会(かいしんしょうえ)の略。契心は、一切と一心とが割り符を合わせたようにぴったりと一つになっていることで、証会は真理をさとり、道を会得すること。
注4:寂理=涅槃寂静の真理
注3:観事生滅之句=道宣『行事鈔』の以下の文(『大正』40、149頁上)を指すと考えられる。
經中に乃ち多く要を三位に分かつ。一には小乘人の行、事は生滅なりと観ず。人の善惡等の性に我無きことを知る。二には小菩薩の行、事は生滅なりと観ず。人の善惡等の相に我無きことを知る。三に大菩薩の行、事は是れ心なりと観ず。意言を分別す。

南山宗でいうところの三種の真実を対象とした観法は律にしたがう。道宣の教観に関する考え方も、これによるものである。戒と観との両門は、心とその対象がそれぞれ異なる。戒は禁忌を心として、罪悪をその対象とする。観は真理をさとることを心とし、真理そのものをその対象とする。道宣の『行事鈔』には「観事生滅」から始まる句があるが、これは差別の世界を対象としたのものである。『大智度論』に説かれる「因縁所生法」と同義である。真理の世界を対象としたものではない。

The observation targeting the three truths of Nánshān-sect南山宗 follows the vinaya律. The idea concerning Dàoxuān道宣 's teaching and observation is also this. Both gates of Sila戒 and the observation観 are different in heartland心 and target境. Sila戒 's heartland is a contraindication and target is a guilt. Observation観 's heartland is to take the truth, and target is the truth. Dàoxuān道宣's "Sìfēnlǜhángshìchāo四分律行事鈔" has sentences beginning with "guān観shì事shēngmiè生滅", but this target is discrimination world. It is synonymous with "yīn因yuán縁suŏshēng生滅fǎ法" (all established by cause and condition) "in ”Dàzhìdùlún大智度論". This target is not truth world.





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